良いことがあったら喜べばいいのよ

 仏教では執着を嫌います。全ては移ろい行くのだから世界よ止まれお前は美しいと言ったところで止まってはくれないのです。どんな喜びもいつかは滅ぶもので、苦の因でしか無いとしています。

 では、何か自分にとって良いことがあっても、所詮は仮そめの物よと軽んじれば良いのでしょうか?そんな事はありません。例えば、今日食べる物があった事はその縁に感謝しながら喜んで頂いた方が美味しくなります。子供たちが遊ぼうと言ってくれば一緒に楽しく遊べば良いのです。ごちゃごちゃ言って子供たちを困惑させる方が罪深い事です。

 楽しいこと嬉しいことを貪ろうとして他を傷つけるのはいけませんが、今の自分に与えられた良かった事はそれに至った縁のありがたさを思い素直に喜べばいいのです。それが無常であるからこそ良い思い出は貴重なのです。喜んでいるのが子供だと思えば分かりやすいです。子供が両親に自慢気に「虹がキレイだから見て!」と言ってきた時に、「虹など直ぐに消えるのにそんな物で喜ぶとは貴様は無常を知らぬ凡夫だな」と返事をするのと、「うわーキレイだね教えてくれてありがとう」と共に喜ぶのでは大きな差があります。どちらがより仏道にかなうものかは言うまでもありません。

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