変えられるのは自分だけでも
多くの仏教書や説法で語られているように、仏道の修行とは基本的には自分を磨いて変えるためのものであり、他者を自分の思い通りにしようというものではない。これ自体は間違っていない。しかし、この考えを誤解して、どんなに他人が苦しんでいようが自分には関係のないことだと見捨てたり、また理不尽な暴力に悩む人にその状況を打開するような助けを与えずに苦痛を感じるのはその人に煩悩があるからで悪いのは環境ではなく苦しんでいる人だという仏教者もいる。こうした考えは明らかに間違っている。
また、どんなに研究しても研究し尽くす事が出来ないであろう宇宙についての学問も、役に立たない無駄なものだという僧侶がいる。おそらくお釈迦様の毒矢のたとえで説かれた、考えても分からない事に時間を割くのは無駄だとの見解をそのまま、現代科学への批判として利用したのだろうが、宇宙に関する知見が深まることで、例えば天気予報の精度が増し天災から身を守りやすくなったし、GPSによる測位で遭難も減った。今では地球に衝突しそうな小天体の監視まで出来ている。今すぐには役立たないような知見も将来多くの命を救うことだろう。無駄であろうはずがない。そもそも現代科学を無駄だと切り捨てるのならば、倶舎論の古代物理学的な範囲の物はどうしようというのか疑問だ。
学問も政治もやりかた一つで多くの人を救えるが、逆に多くの人命を奪うこともできる。仏教の話でなくても、権力なり知力なり体力なり財力なり何らかの抜きんでた力を持つ者に高い倫理性が要求されるのは人間が歴史の中で積み上げてきた社会の知恵だ。
仏道によって変えられるのは自分だけであっても、仏道修行で培われた慈悲の心は社会へ感謝とともに還元できるし、またそうするべきだろう。
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