日本仏教の在家主義

 日本仏教の批判として僧侶の戒律軽視はよく槍玉に上がるところだ。しかし、極論すればこれは日本仏教の伝統や特色と言ってもよいもので、それ自体は批判に値しないと断言する。日本仏教が上座部仏教と違うとかチベット仏教と違うと言う意味での批判ならありうるが、違うものなのだから仕方ない。

 戒律が緩いことにより日本では聖俗の境が薄くなっており、在家に密着した教えが伝えられてきたとも言える。現代でも田舎に行けば、檀家と僧侶の関係は主従ではなく仲間だ。日本の僧侶の戒律破綻は明治時代から始まったとする言説が多いが、そもそもの始まりは平安時代に天台宗が具足戒を廃止し大乗戒に移行したところに遡ると言って良いだろう。その後、平安時代末期から鎌倉時代にかけての浄土思想の流行により、僧侶の世俗化はますます進んだと言える。また、僧侶の位も持っている上皇で、院政を施いた歴代の法皇もその政治的な活動が必ずしも戒律を守ったものでは無かったのは明らかであり、明治以前から日本ではあまり戒律は重視されていなかった。もちろん、日本の仏教が現在のような形になったのは明治以降であろうが、明治維新によって僧侶が身分から職業に変えられたのはきっかけに過ぎない。

 そもそも大乗仏教は在家も成仏しうるとする教えであり、僧侶が在家に近い立場であったとしても問題は無いはずだ。個人的に厳しい戒律を守った方が修行が捗るのならばそうすればいいのだけの話であり、在家の生き方ではけしからんと言うのなら大乗仏教の存在意義からあやしくなる。

 日本的な大乗仏教は社会に生きながら活かしうるものであり、多くの僧侶が街や村々をめぐりともに生きてきた歴史がある。寺院に閉じこもり己の修行にのみ専念した僧侶はむしろ少数派だろう。この伝統が今後も続くように祈る。

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