喫茶去

 喫茶去はものすごく有名な禅語なので改めて話すのも恐縮ですが、大学時代に茶道部だったこともあり今日はこの難問に挑んでみたいと思います。

 まず、喫茶去の話を簡単にまとめておきます。唐の時代の趙州禅師が修行をしにやってきた二人の僧の片方に「以前ここに来たことはあるのか」と尋ねて、「あります」と答えると「まあお茶でも飲んでいきなさい」と言い、もう片方にも同じ質問をしてその答えが「ありません」でもやはり「まあお茶でも飲んでいきなさい」と言いました。その様子を見ていた寺の院主が趙州禅師に「なぜ二人の僧に同じことを言ったのか」と問うと、趙州禅師は「まあお茶でも飲んでいきなさい」と答えたという話です。

 これは経験の深浅や身分の分別を超えた平等さを表しているとの解釈があります。分からないものをそのまま受け入れよと言う意味だと言う人もいます。過去、現在、未来においてなすべきことはただ一つだとする意見もあります。色々ありこの話に関して人の意見を聞くのは楽しいものです。

 しかし、そうした難しい話はともかく、考え込んで悩んでいる時は、お茶でも飲んで一息入れると心も落ち着くことがあります。別にコーヒーでも紅茶でもいいですが、おそらく世界共通です。特に感情的になっている時こそ一旦その状態から離れ落ち着くことが大切です。私には趙州禅師がみんなに「まあリラックスして落ち着け」と言っているような気もします。

 禅問答は心の鏡、皆様はどうお感じになられたでしょうか?

 喫茶去。

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