前後際断
前後際断は道元禅師の正法眼蔵の第一「現成公案」にある言葉で後に臨済宗の沢庵禅師が剣豪の柳生但馬守に今の瞬間に集中するように説いた時に使われた言葉としても知られています。
正法眼蔵の説明では、灰が薪に戻ることが無いように死が生に戻ることは無いが、生が死になるのでもなく薪は薪で灰は灰であるように生も死も異なる状態であるとするのが前後際断です。
失敗も成功の経験も現在の行為の参考には出来ても、過ぎ去った過去は変えられないのだから執着して思い悩んでも仕方がないのです。未来から見た時に変えられなくなる過去は今、この瞬間に作られているのだから、絶え間ない精進が必要なのです。
今さえ良ければどうでも良いのではなく、今やった事、今やらなかった事は、変更が出来ない過去になって積み重なるのだから真剣に生きないと後になって俺は何をしてたんだと思い悩む原因になるのです。
前後際断を語る時に過去や未来を軽視または無視するのが良いかのような説明が多いですが、私の個人的理解による前後際断は変えられない過去を無視することでも先の見えない未来をないがしろにすることでも無く、流れの中ではそのすべてを大事にしているから何かを出来る今を頑張るという意味だと思います。過去への感謝や反省も未来への展望も無いのとは、ちょっと違う。柳生但馬守は剣豪なので余計な事を考えずにその場の勝負に全力を尽くすのが正解ですけど、戦っていない時は今の修練のために過去の反省点を思い出したり未来に自分の理念を実現させようとその時々の今に修練する事もあったでしょう。
人は過去を完全に忘れれば傍若無人となるし、未来に目指すべき理想がなければ精進することもなくなります。こだわりすぎるのは禁物ですが、前後際断を刹那の快楽主義に誤解することが無いようにしたいものです。
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