一切皆苦

 この世の一切が苦しみと知り、その苦しみから逃れるのがお釈迦様の出家の動機でした。そして、その方法を見つけ世に説かれたのが仏教です。つまり、この世の一切はみな苦しみであるとする一切皆苦は仏教の前提です。世の中には楽しいこともあるとする意見もあるでしょうが、楽しいこともいつか必ず壊れるので苦だと捉えられます。ところが、仏教の変遷の歴史において、主に大乗仏教では仏教が説かれた原因となる一切皆苦よりも、苦を滅した状態がやすらぎであるという結果の涅槃寂静の方が強調されるようになります。

 在家主体の大乗仏教でこの傾向が強いのは考えてみれば当然で、結婚したと喜んでいる夫婦に対してああそれは苦しみだとか、子供が出来たらああまた苦しみが増えたとか、豊作で喜ぶ人々に向かってああそれは苦だかわいそうになどと言っていたら早々に大乗仏教は滅んでいた事でしょう。出家と在家が完全に別れている部派仏教では、今生で救われるのは出家者だけですので在家信徒らの世界を苦だとみなしても問題ありません。部派仏教の在家信者は出家者を供養することで功徳を積み来世でいいポジションにつくのが目的なのです。はるか未来で悟れたらいいなくらいの気軽さであり、それはそれで良いような気もします。そう考えると、何がなんでも今生で決めてやるとの意気込みがある大乗仏教の方が潜在的に一切皆苦の発想による切迫感があるのかも知れません。

 このような違いはあるものの、苦の原因である煩悩を滅するのが悟りへの道であるとするのは大乗仏教でも不変です。煩悩である貪りや怒りから知恵を持って離れるためにも、苦を認識するのは大切なことです。初期仏典である雑阿含経には物資やそれに対する自己の精神的な作用を楽だと捉えて執着すれば煩悩から抜け出せず、逆にこれらを苦と捉えれば貪りから離れる事が出来るとの教えも説かれています。執着や貪りを抑えることで苦からも離れる事ができるのです。なお、こうした執着や貪りを抑える修行の一つがお布施です。

 日本でも一切皆苦の基本はあるものの、多くの宗派で人や自然の中に仏を見出しており、あまりこの世の全てが苦しみだとの印象は受けません。浄土教系の宗派はこの世を汚れた穢土と見ますが阿弥陀如来の本願力に支えられる人生は単なる苦であるとは認識されていません。これらは原義に反していると言うよりは、儚く移ろい滅んでいくものへの慈しみをもつ日本文化や感性の問題であり、さほど目くじらを立てなくても良いでしょう。文字にばかり目を奪われると本当に大切な事が見えなくなるのです。

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