護法一揆
このところ明治期の話が多かったので、その流れで今回は護法一揆の話をします。
明治の廃仏毀釈と言えば寺院や仏像が破壊され僧侶が辱められたとのイメージが強く実際にそうなのですが、実は仏教者はただなすがままにやられてはいませんでした。特に、かつて戦国時代の為政者たちを一向一揆で恐怖のどん底に叩き落した歴史がある浄土真宗の門信徒らがこの法難に黙っているはずもありません。
明治4年4月北陸で維新政府は仏敵であるとして門徒達が蜂起します。同様の一揆は他にも次々おき、同年中に三河で、明治5年4月には新潟で、明治6年3月には福井でそれぞれ真宗門徒らが立ち上がりました。他にもいくつかの一揆があり、仏教を守るべく戦ったこれらの一揆を護法一揆と呼びます。その後、明治政府の仏教弾圧は徐々に弱まっていくことになります。これらの護法一揆はいずれも鎮圧されましたが彼らの必死の抵抗がなければ、日本から仏教は消えていたかも知れません。
三河の一揆指導者の石川台嶺は斬首、新潟の一揆指導者の安正寺知観は死罪、福井の一揆指導者の専福寺顕順と竹尾五右衛門ら六名も処刑されました。他、護法一揆に関わる全ての死者に哀悼の意を表します。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
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