我思う故に我ありという言葉

 我思う故に我ありというデカルトの命題は多少の異論はあっても一般的には、この世の全ての物を疑ったとしても今こうして考えている「我」の存在は疑いようも無いとする言葉と理解されています。

 この考え方は通常は正しい様に思われますが、大乗仏教的空の視点から見ると「我」はあくまでも様々の関係性の中の観念に過ぎず確固たる存在の「我」があるとはみません。つまり我思うとは「我」が思った様に錯覚しているだけなのです。

 我が思う事でこれまでの経験による影響を免れるものは何もありません。父母や先生や書籍やその他の五感を経由して記憶した事の組み合わせです。我は、それでも何かの新しい考えをひねり出すかも知れませんが、それではその新たな考えのみが「我」なのかと言うと違うはずです。我が思う「我」とは考える主体であり、考えている内容の独自性が高かろうが低かろうが無関係です。

 常識的に考えれば「我」は肉体を保有しており脳で物事を考えます。外界といくら関係性があろうがこれを「我」だとするのが通常ですし、社会的にはそうしておかないと諸々話が進みません。しかし、存在の実在性を徹底的に疑ってかかった時、自分が常識的に認識している世界は全て幻想であるかも知れないというアイデアを否定するのは不可能です。それでもそういう事を思っている主体として「我」があるのだと考えがちですが、実はそう認識しているだけで「我」が主体であることの保証にはなりません。

 もし、あなたが自分とは違う仮想上の人格を考えて、その人がどんな考えをするのか熟慮したしたとします。その際、自分は仮想人格の思考を見てさらなる思索の助けとしますが、この時に仮想人格の考えは主体として存在するとは言えません。仮想人格はあなたが主体的に考えた幻に過ぎないからです。そして、あなたが「我」と感じている物が実はサンドボックス内の仮想人格で無いと証明することも出来ません。

 こうした決して証明のしようが無いことを考えるのは楽しいかも知れませんが、現実的には時間の無駄でしかなく有害です。結局、私達が「我」だと思っているものは他の様々な「我」の影響を受けて成り立っており、また「我」による出力は他の多くの「我」にも影響を及ぼしているのですから、「我」の境界線はどんどん不明瞭になっていきます。全てが移ろいゆく諸行無常の世界では、確固たる「我」は存在せず諸法無我なのです。

 初期仏教の昔から大乗仏教に至るまで諸法無我は仏教の基本の一つです。しかし、初期仏教は確実に輪廻転生を前提とした思想です。もし「我」がそもそも存在しないのなら、転生する主体は何でしょうか?その答えの一つとして「我」があると思う妄想が原因となって次の「我」を生み出すという縁起や因縁に基づく考えもあります。だから「我」なしと思える時に輪廻の輪から解放されるのです。

 卑近な話でもなんでもかんでも我が我がと貪り怒るとろくな事にはなりません。世の中ほどほどに脱力するのも必要です。

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