不立文字

 禅宗系の宗派では不立文字といって、経典や論での言語的教え以外に直接人から人へと修行によって伝わっていく非言語的教えがあるとする考えがあります。大乗仏教の実質的な祖である龍樹菩薩も言語の限界を指摘しています。座して学習し、人々と議論するだけでは理解できない言語化困難な直観は確かにあります。ですが、龍樹菩薩の中論や、道元禅師の正法眼蔵ではこうした直観をあえて言語化しようとしています。言語化が困難な物を言語化しているがゆえにたいそう難解なものとなっています。公案集も含めてこうした本が難しいのは当然なのです。

 では、先人達はなぜに教えの言語化を試みたのでしょうか?本人では無いと正解は分かりませんが、人づてに伝わるうちに予期せぬ教えの変異が起きるのを避けるために、ヒントとなる事をなるだけ書き残そうとしたのでは無いかと思います。ただ、文章で伝わっても書き写したり訳したりするうちに変異は起きますし、解釈が変わる事もあり悩ましいことです。

 天台宗や日蓮宗の摩訶止観も精神を集中して観察するという禅と同じようなものですが、こちらは法華経の教えがベースとなっており事細かく言語化体系化されておりやや趣を異にします。

 不立文字を批判する宗派はありますが、他人の言葉を聞く時は文字面とは別の意図が無いかは気にしておいて日常生活上の損は無いかと思います。思いやりの心は大切にしましょう。

 それではまた。合掌。

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