仏教は虚無主義か?四顛倒と常楽我浄

 仏教は虚無主義だと言う意見をよく聞きますが本当でしょうか?今日はそれを検討してみたいと思います。

 さて、仏教が虚無主義であるかどうかを判断するには、まず虚無主義とはなんぞやという事から決めねばなりません。虚無主義、ニヒリズムはその言葉を使う人によって意味が違っていることが多いですが、歴史的に見れば、主にキリスト教の価値観が崩壊した西欧社会において、世界や人間の存在に意味や価値が無いとするものの見方です。虚無主義者がこの事実に対して取りうる態度は、無価値であることを認め流されるように生きて死ぬことか、無価値である世界に自己の価値や意味を創造しそれに殉じることですが、一般的に虚無主義とは前者を指す場合が多く今回はこちらを虚無主義代表とみなします。

 そういう意味での虚無主義と仏教が同一視されがちな理由は何でしょうか?仏教の根本的思想である一切皆苦、諸行無常、諸法無我、等の言葉を並べてみると、なるほど一見しただけでは虚無主義的だととらえられるかも知れません。こうした考えを正しいと見るがゆえに、古来仏教には四顛倒と呼ばれる誤ったものの見方を示す言葉があります。即ち、この世の全ては永続しない無常なものなのに不変である(常)とみなし、この世の全ては苦であるのに楽しいことを見出し、この世は関係性の中にあり確固たる自我など無いのに我が存在すると考え、この世の全ては汚いのに清らか(浄)だと錯覚するというものです。この教えは後述するように大乗仏教の出現により解釈が反転することとなりますが、この世(有為)の四顛倒の考え方は少なくとも上座部仏教などの部派仏教には当てはまります。

 では部派仏教は虚無主義なのかと言うとそれも違います。部派仏教の究極的な目標は煩悩を断ち切ることで煩悩から連鎖する因縁のつながりによって起きる生死の繰り返しから抜け出す解脱にあります。表面上は虚無主義的に見える思考と修行は解脱して絶対的な安らぎである涅槃に入るという価値や意味の元に成立しているのです。部派仏教では輪廻転生はあるとしていますが、輪廻の輪から解脱した者が死後どうなるのか明示していません。これは部派仏教的に考えれば、もし死後の世界があってもなくても全ての執着を捨てた者にはどうでも良いことだからでしょう。

 はい、次に我らが大乗仏教は言うまでもなく虚無主義からはかなり縁遠い教えです。だいたいにおいて仏教が虚無主義だという言説は、仏教は虚無主義なのにそうでない日本の仏教は堕落していると日本の仏教を批判する目的が先にあってこさえた感があり、この場合は日本の仏教が非虚無主義であるのは前提な訳です。先に大乗仏教以前の仏教も虚無主義ではないと証明したので、大乗仏教に関しての解説は省いてもいいですが、四顛倒の説明の時の誤った見解とされた、常、楽、我、浄が大乗仏教では涅槃の境地を示すありがたい言葉に転換されていることを説明をして、その感性の違いを見てみたいと思います。

 四顛倒は大乗仏教でも有為(この世・俗世)の四顛倒として真理とされますが、悟りを開いた涅槃の状態にある場合は無為の四顛倒とされた常楽我浄の見方が反転して四徳になります。即ち、「常」とは仏が永遠不滅の存在であることで、「楽」とは人の苦楽とは違う仏の安らかさを得ることで、「我」とは人間の執着である自我とは違うすべての人が本来持つ仏性を如来我としたもので、「浄」とは涅槃の境地が煩悩から離れた清浄な世界であるとする考えです。この考え故に殆どの大乗仏教では成仏後の世界を明言しており、それは常楽我浄の悟りの世界である浄土なのです。つまり、俗世の常楽我浄と涅槃の常楽我浄とは別物となりますが、大乗仏教でも日蓮宗系の宗派は常楽我浄という言葉を、「現世で仏は常に法を説いており、故にこの世界は安穏(楽)としていて、お釈迦様が成仏(如来我を持っている)しているので、池のように清涼(浄)であり続けている」という感じに解釈し、現世に浄土を現出させているので他の大乗仏教とニュアンスが異なります。ただ、禅宗系や密教系でもこの世に涅槃を見出すことは多く、この世を汚れたもの(穢土)とみなす浄土教系の宗派の方がむしろ少数派かも知れません。

 ともあれ、仏教は虚無主義ではないといえます。

 それではまた、合掌。

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