良寛さんの歌 その4
今日は、良寛さんが加齢に伴う体力の低下もあり山中の五合庵を出て、麓の乙子神社社務所に暮らしていた頃の歌を一首紹介します。
ますらをの 踏みけむ世々の 古道(ふるみち)は
荒れにけるかも 行く人なしに
過去に立派な先人たちが作り上げてきた(仏の)道が、今やす誰もおらず、すっかり荒れてしまったと嘆いた歌です。
良寛さんは大悟して後もお寺の住職などには収まらず(誘いがあっても辞退して)世俗の民の中に乞食行を修めながら清貧の生活を送っていました。良寛さんのいう古道が具体的にどのような仏道だったのかは述べられていませんが、自身の目指す姿を思い描いていたのでしょう。一般の衆生とともに泣きともに笑い、自身は贅沢をせず、書や詩歌を極め、求道を尽くした良寛さんは稀代の名僧です。一方で、多くの詩歌に、その感情を包み隠さずさらけ出しており、昔も今も人々の心をひきつけてやみません。
良寛さんの歌は、晩年になるに従い弱気な物が増えていきます。以前に紹介した辞世とも言われる「形見とて何残すらむ春は花、夏ほととぎす、秋はもみぢ葉」も秋の月(仏法)と冬が欠落しており、仏道修行が完成せずに散る自身の悲哀を歌ったようにも読めます。良寛さんは死後、自身が修行した曹洞宗ではなく、浄土真宗の寺に埋葬されます。最晩年の歌には次のような物があります。
幾歳の 願ひか今日は 巡り来て
はや生まれゆく 花の台(うてな)に
死後、極楽浄土へ生まれる事を喜ぶ歌です。墓碑に書かれている南無阿弥陀仏も良寛さんの筆によると言われ、晩年に住んでいた木村家も浄土真宗の門徒であり、良寛さん自身も浄土教への想いを増していました。こうした人間くささも良寛さんの魅力の一つです。ただ、そのライフスタイルや思想は単なる宗派では語れない独特の教えを今に問いかけ続けています。良寛さんの思う古道に想いをはせながら、今日も勤めて参ります。
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