伝教大師忌

 本日6月4日は、今から約1200年前の弘仁13年6月4日(西暦822年6月26日)、伝教大師最澄が亡くなった日です。最澄はもはや説明する必要もない現在の日本仏教の原型を作ったとも言える偉人です。その生涯については方々で紹介されているのでそちらを見てもらうことにして、今回は最澄がその命をかけて目指した大乗戒壇設立についてお話します。

 最澄の時代、僧侶になるための受戒には具足戒と呼ばれる伝統的な僧侶が守るべき規則集を使っていました。その規則の数なんと250戒、尼僧には348戒もの規則がありました。この具足戒の中味を見ますと似たような内容の繰り返しも目立ち、まるで初期仏典の様でもあります。大切な事は繰り返し強調したい意志のあらわれなのでしょう。性的な問題に関わるものが妙に多く、恐らく昔からその手のトラブルは多かったのでしょう。あとは他の僧侶をくすぐってはいけないとか、ベッドの高さの指定とか実に事細かに決められています。

 では、最澄がこだわった大乗戒はこの具足戒とどう違うのでしょうか?実のところ、大筋では大きな違いはありません。大乗戒は梵網経というお経の中に説かれている在家・出家ともに共通する菩薩のための戒として10の重戒と48の軽戒をベースに作られています。奈良時代に来日し我が国に戒律を伝えた鑑真は、僧侶には具足戒を、在家にはこの梵網経の菩薩戒を授けていました。最澄以前から、大乗戒の基本となる戒はあって、内容も具足戒よりは飲酒や男女間の規則がゆるい程度で大きな差は無いのに、あくまで大乗戒にこだわった理由とは、この梵網経の菩薩戒が出家・在家ともに共通の戒だったからでしょう。出家も在家もともに菩薩として救いの道を歩む事が、大乗仏教や法華経的な一乗思想に適合する故だと思います。

 梵網経の10の重戒は、殺さない、盗まない、性行為をしない(在家は不道徳な性行為をしない)、嘘をつかない、酒を売らない(飲まないのは軽戒です)、人の罪を喧伝しない、自分を褒め称え他人をけなす事をしない、物惜しみをしない、怒らない、仏とその教えと仲間を誹謗してはいけない、の10個です。48の軽戒の中には、棺桶を売ってはいけないとか、どこであってもお経の講義がある時は全て聞くとか、(時代が過ぎたせいで言葉の意味が不明となり)具体的に何を指すのかはっきりしない物を食べてはいけないという決まりなど、特定職種に差別的であったり、実質的に実行不能なものだったり、すでに何を意味するのか分からなくなっているものもあります。しかし、これらは菩薩が保つべき三つの浄らなか戒とされる三聚浄戒である摂律儀戒、摂善法戒、摂衆生戒の中に、内包されるとされています。つまり摂律儀戒が10の重戒を守ることで、行動と言葉と意思を用いてあらゆる良い事をする摂善法戒と、生きとし生けるものを助ける摂衆生戒の中に48の軽戒は内包されるのです。要は重戒以外は、ある程度柔軟に運用されるのを前提としていたようにも見えます。

 大乗戒による戒壇を設立しようと心血をそそいだ活動を行った最澄ですが、朝廷から大乗戒壇の設立が許可されたのは、最澄の没後7日後だったと伝えられます。その44年後に日本の仏教界における最澄の活躍が認められ、今に知られる伝教大師の諡号が清和天皇より贈られます。日本初の大師号でした。さらにその後、鎌倉時代に現れた禅宗や浄土教系や日蓮宗などの新しい仏教の宗祖たちも比叡山に学んでおり、この日本独自の良い意味でゆるい受戒のシステムは、寛容性の高い仏教宗派が日本に多く生まれる遠因となったのかも知れません。南無宗祖根本伝教大師福聚金剛。

 写真は比叡山の戒壇院です。

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