仏教の宇宙観など

 実在のお釈迦様は考えても分からない悟りとは無関係の事で思いなやまないように諭したと言われています。有名な毒矢のたとえですね。毒矢のたとえは中阿含経の箭喩経にあるお話で、世界の果てや時間の終わりがあるかどうかなどの答えがない疑問に執着する弟子にお釈迦様が語ったたとえ話で、毒矢に射られた人の毒矢を抜いて治療しようとしているのに、被害者が加害者の細かい素性がわかるまでは治療しないとして毒矢を抜かずにおけば被害者はそれが分かる前に死んでしまうという内容のお話です。人生の根本的な問題の解決が優先されるべきであり、実証しようのない事ばかり気にしても仕方がないのです。

 余計な事は気にするなというのはまさにその通りなのですが、やはり人はそういうことが気になるようで、お釈迦様の死後、仏教教団の中では宇宙論というか世界観や物理現象や時間についていろんな解釈がなされていきます。そのなかには、現在のマルチバース理論(多元宇宙論)につながるような三千大世界(10億の世界が併存するという考え)の考えや、現代の原子論のような考えかたもありました。三千大世界については幕末の志士である高杉晋作が遊郭で「三千世界のカラスを殺しぬしと朝寝がしてみたい」と歌ったように一般的な世界観として知られていました。この宇宙も含め10億の宇宙は他の宇宙の因縁によって生じ、やがて滅び、また新しく生まれる、今も生まれる宇宙があれば滅ぶ宇宙もあるそんな世界観です。原子論についても単に最小の粒子で物質が構成されているという考えだけにとどまらず、その連結や性質についても(現代的な視点では間違っていても)深く考えられています。時間についても既にある実在した現象が、現在の原因から導かれた結果としえ未来から次々に現在へと現れ、現在の現象は過去となっていくと見る一派もありました。この考えでは時間はこうした個々の実在の連続であり、個別の物質は瞬間ごとに生滅を繰り返すという独特な考えもあります。

 これらはもちろん、現代科学の目から見れば間違っている点も多いのですが、実験で確認した訳でもない、こうした説が細かく積み上げ練られた理由はなんでしょうか?仏教には縁起の法により世界は原因と結果が結びついているという考えがあり、それに基づいて自分の内面や取り巻く環境を正しく観察し瞑想する修行があります。過去の多くの修行者が長い時間、膨大な事象に対してある種の思考実験を繰り返していった結果として、当時のインドで主流だった世界観がベースになっていたとしても、さらに細かく練り上げられていったのでしょう。こうした観察は実は世界観よりは、自己の心や認識に向けられることの方が多く、その膨大で複雑な思想体系は主に南伝仏教に引き継がれていく事になるのです。その話はまた機会があればしてみたいと思います。

 それではまた、合掌。

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