長崎の仏教文化
長崎(主に長崎市)は一種独特な仏教文化あります。例えば長崎人以外にお墓の土神様と言っても理解されないでしょう。土神様は墓地の守護神で、お墓の脇に朱書きで土神と書かれている小さな石碑があるのが長崎では普通です。お墓本体の表面に彫られた字は金色に装飾されます。お墓用のお線香も竹線香と呼ばれる独特の煙の強い線香が使われます。また、お盆には各自のお墓で爆竹が鳴り響きます。お盆の送り火に相当する精霊流しも舟を模した山車のような物を曳いてドラが打ち鳴らされ、爆竹や花火がバンバン使われド派手に送り出されます。
これらの独特な風習は、鎖国時代に明〜清朝の文化が流入して形成されたと伝えられていますが、日本の他の地域と比べて明らかに異質な文化が容易に吸収されたのには、それに至るまでの素地もありました。実は、長崎の仏教や神道の文化は鎖国化の少し前の時代に一度完全に破壊されていたのです。
天正2年(1574年)、現在の長崎はキリシタン大名の大村純忠の支配下にありました。この年の11月1日、イエスズ会の宣教師ガスパール・コエリョは大村純忠にある勧告を行いました。その結果、大村家の領地内の全住民にキリシタンへ改宗するように布告され、従えぬ者は追放される事となりました。領内の寺社も教会に変えぬ限りは破却されることとなったのです。その時の様子は、「郷村記」と呼ばれる書に残されており、領内のキリスト教徒により寺社仏閣が焼滅され、居住の僧侶が殺害され、すでに領外に逃げようとしていた僧侶もキリシタンに捕まり切り刻まれて便所に捨てられたと伝えられています。大村家の先祖の墓も破壊され遺骨は川に捨てられてしまうほどの徹底ぶりでした。この事件は有名なルイス・フロイスの「日本史」にも残されており、司祭の説教を聞き終えたキリシタンが寺院を完全に破壊するさまを伝えています。
こうして長崎の仏教文化は一度完全に途絶してしまうのです。長崎市の隣の諫早市は大村家の支配地ではなかった為、古い寺社も残っていますし、現在の長崎市でも大村家の支配地ではなかった地域では奈良時代から続くと伝わるお寺も残っていますが、天正2年に破壊された旧長崎地域では、慶長3年(1598年)に長崎郊外に建立された悟真寺が最も古いお寺となっています。悟真寺創建当時、旧長崎にはこのお寺しかなかった為、明国の商人らはこの寺を長崎での菩提寺としていました。長崎に漢人風の仏教文化が広がる遠因になったのかも知れません。ちなみに、悟真寺には唐人墓地の他、オランダ人やロシア人など、仏教、キリスト教、道教、イスラム教の墓地もあり、鎖国時代、遠い異郷の日本で没した色んな国の人達をともらっています。
長崎と言えば江戸時代のキリスタン迫害の歴史が有名ですが、その前にはキリスト教徒による仏教・神道への迫害が行われていた時代もあったのです。長崎郊外の悟真寺創建から6年後の慶長9年(1604年)、長崎の街のそばにできた正覚寺は、残存キリシタンから度々焼き討ちにあい、仏僧も武装していたと伝えられます。現在、長崎の諸宗教は仲良くやっていますが、長崎はその歴史を振り返ると日本史上でも珍しい血で血を洗う宗教紛争が続いた地でもあるのです。
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