増上寺(東京都港区)

 ヴァーチャルお寺巡り第7回は徳川家菩提寺の一つである増上寺です。写真にもあげていますが、お寺と東京タワーと桜がいい感じおさまる絶好の撮影スポットで知られています。

 さて、徳川家との関係が濃く三葉葵の御紋をもつ増上寺は日光や寛永寺と並んで政治的呪術的な解釈を受けており、その手の解説はネット上に溢れていますので、それはよそにゆずるとして、仏教系ブログとしては、徳川さんのせいで一般には影が薄い、増上寺ご開山の聖聡についてお話して参ります。

 影が薄いとは言いましたがそれは観光客に対しての話で、聖聡(しょうそう)とその師の聖冏(しょうげい)は浄土宗中興の師弟であり、現在の浄土宗鎮西派の原型を作ったとも言える有名人です。

 聖聡の師である聖冏が活躍した室町時代の前半の頃、浄土宗は他の仏教諸宗派からは独立した宗派とはみなされずオマケ的な扱いを受けていました。これに対して聖冏は、他の諸宗派の教理や神道や文芸までも深く学び、その視点からも浄土教の教えは優れているとの論を展開して、徐々に浄土宗の地位を高めていったのです。この、他の宗派の論理をもちいて浄土宗の立場を扶助する方法は、随他扶宗と呼ばれ聖冏の思想・行動の特徴とされています。この時代、一部の僧からは浄土宗は信徒が自分のみの救済を祈るとして小乗仏教(大乗仏教以外の仏教への蔑称)だとの批判もあり、聖冏はこれにも反論をしています。聖冏は浄土宗には、お釈迦様からつながる宗派だとする宗脈と、比叡山から連なる僧としての戒を引き継いでいる戒脈が存在すると主張して、この2つを確実にすることで浄土宗を確固たる宗門にしようとしました。このうち、主に宗脈に属する浄土宗の教育のために聖冏が作り上げたシステムが、今でも浄土宗に受け継がれている五重相伝です。
 五重相伝は5つの伝書を用いて55箇条の伝法の項目を伝える事を目的としており当初は114日間のカリキュラムが組まれていましたが、現在では短縮されており、僧侶向けでは無く信徒向けのごく短期間で済む結縁五重というものも出来ました。しかし、基本的な理念は変わっておらず、使われる伝書の一つ目は法然聖人の「往生記」です。往生記には成仏をさまたげる要因として疑いと怠け心と自力と高慢が挙げられており、往生を助ける要因として信心と精進と他力と卑下が上げられています。要は謙虚にして思い上がるなという戒めで、念仏も色々と理屈をつけること無く愚かにひたすらに阿弥陀如来の他力を信じる事を最良としています。これから色々と難しいことを言う前に、ひたすら念仏すれば救われるという浄土宗の基本理念を一番初めにおいたことで、ややもすれば理屈ばかりになりがちな僧侶の教育に釘をさした形となっています。五重相伝はそれぞれ機、法、解、証、信を伝える事を目的としており、往生記の講義を一重目として自己の成仏の要因(機)を伝えています。二重目は弁長の「末代念仏授手印」で、これは阿弥陀如来の絶対他力の救い(法)を教えています。三重目は良忠の「領解末代念仏授印抄」で浄土宗の教えや行の理解(解)を教え、四重目は同じく良忠の「決答授手印疑問抄」で二重目の授取印への疑問に答え教理を証する(証)教えです。五重目は曇鸞の「往生論註」でこの浄土教の原典とも言うべき書をもって信心を得る(信)のです。こうして聖冏が精魂込めて作り上げた教育システムは弟子の聖聡に引き継がれます。
 さて、聖冏から五重相伝を引き継いだ聖聡ですが、元々は真言宗を学んでいました。それが至徳2年(1385年)に現在の茨城県で聖冏の談義を聞き浄土宗に改宗し聖冏の元で勉学に務めたのです。聖聡が20歳ごろ、聖冏が40歳代の頃でした。その後も勉強に励んだ聖聡は、弘法大師により9世紀に開基されたと伝えられる真言宗の光明寺を、明徳4年(1393年)に浄土宗の寺院として復興させました。これが増上寺の始まりです。その後、増上寺を拠点として、聖冏がつくったシステムを聖聡が強力に布教・運用し多くの弟子を生み、諸派に分裂していた浄土宗鎮西派を一つにまとめて、現在の浄土宗(鎮西派)の礎を築いたのでした。

 このように、家康もなんとなく増上寺を菩提寺に決めた訳ではなく、元から由緒正しいお寺なのです。徳川家菩提寺だから凄い訳ではないのです。合掌。


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