善光寺(長野県長野市)
ヴァーチャルお寺めぐりの第5回目は長野県長野市の善光寺です。善光寺は日本屈指の古刹だけに歴史的な話題や伝説等が豊富です。また、昨日はチベットの話題でしたが、実は善光寺とチベットにはちょっとした縁があります。その話は後ですることとして、まずは絶対秘仏となっている善光寺如来の誕生の言い伝えを紹介します。
お釈迦様が在世の頃、インドに月蓋というお金持ちがいましたが、彼は仏を敬わずとても貪欲でした。しかし、そんな月蓋長者も娘の如是姫のことはたいそう可愛がっていました。ある時、国に悪い病が流行り如是姫も病に倒れてしまいます。月蓋長者はあらゆる手を尽くして娘を治療しようとしましたが、その甲斐なく如是姫の命も風前のともし火となってしまいました。万策尽きた月蓋長者はお釈迦様の元を訪ね助けを乞います。お釈迦様は月蓋に阿弥陀如来におすがりするように勧めました。お釈迦様の勧めの通りに月蓋長者がお念仏を申し上げたところ阿弥陀如来が勢至・観音の両菩薩を伴い現れてたちまちに、娘の如是姫の病を癒し、国中から流行り病を消してしまわれました。これに感謝した月蓋長者は、仏像をつくり如来のお姿を留めたいと強く願いました。月蓋長者の報恩の想いに心を動かされれたお釈迦様は竜王の宝物である閻浮檀金という金属を貰い受け、阿弥陀如来とともに、一光三尊仏と呼ばれる、阿弥陀如来と勢至菩薩・観音菩薩が一つの光背に収まる仏像を作り上げました。この仏像は単なる仏像ではなく生きており話すことが出来ました。月蓋長者はその後、深く仏道に帰依したと言います。
さて、月蓋長者は約1000年の後に、百済の聖明王として転生します。当初は悪政を布いていた聖明王でしたが、生き仏である如来像がインドからはるばる百済に渡り、聖明王を諭します。自らが月蓋長者の生まれ変わりと知り、阿弥陀如来のお導きによって聖明王は良い王様になって没しました。その後も百済にとどまった如来像ですが、推明王の代になり、日本での布教活動を望まれ、推明王は欽明天皇13年(552年)に如来像を日本に献上したのです。如来像は蘇我稲目により大事に祀られていましたが、仏教を嫌う物部一族の襲撃を受け難波の海に捨てられてしまいました。50年ほどを水底で過ごされた如来像でしたが、月蓋長者と聖明王の生まれ変わりである本田善光がここを通りかかるのを待っておられたのです。如来像と再開した本田善光は、日本の衆生を救うために如来の導きのもと信州(長野)に善光寺を建立したのでした。
以上が、善光寺縁起と呼ばれる言い伝えの善光寺如来像が日本にたどりつくまでのお話でした。一見すると単なる昔話ですが、有名な牛にひかれて善光寺参りのお話も、欲深いお婆さんが牛にとられた手拭いを追って行った結果として善光寺の仏様との縁をいただき改心する話で、月蓋長者との改心と似ている構造があります。欲から生じた仏縁でも大事に育てていきたいですね。
また、善光寺如来が聖徳太子と文通をした伝説など、こうしたお話はたくさんあります。これらのお話の基本は、善光寺如来が生きており、日本に初めていらっしゃった仏様で、女性も救済するということが強調されています。女性の救済については、はじめに救われたのも如是姫でしたし、善光寺と縁があると言われる聖徳太子は勝鬘経の回でもお話ししたように女性を大切にしていました。また、牛に引かれて善光寺にまいったのもおばあさんです。こうして善光寺は女人救済の寺として有名になり、江戸時代には既に参詣者の半数が女性だったと言われています。
現在は絶対秘仏の善光寺如来ですが、絶対秘仏となったのは、白雉5年(654年)と伝えられています。ほぼ創建直後から秘仏として扱われていたものと思われます。しかし、平安時代末期に園城寺の僧である覚忠は絶対秘仏の善光寺如来を拝観しており、その写しが鎌倉時代初期に成立した真言宗系の図像集である覚禅抄と言う本に残されています。写真は大正時代に出版された覚禅抄に描かれた善光寺如来像です。印刷技術が確立するまでは写本で引き継がれていたので変化してきたのか、以前に別の本で見たのと印の形などが少し違います。また、元禄5年(1692年)には、善光寺の秘仏の存在を疑った江戸幕府により検分されました。これが善光寺如来が人目にふれた最後となります。
善光寺如来は武田信玄・織田信長・豊臣秀吉などに持ち去られその安置場所を転々とした歴史や、度重なる善光寺の火災、親鸞聖人に関わる伝説など語り出せばとても長くなりますので、これらの歴史は機会があればまた別でお話したいと思います。
さて、冒頭にお話したチベットと善光寺の縁についてお話します。2008年の北京オリンピックの前に世界中で行われていた聖火リレーでしたが、時を同じくして激化した中国政府によるチベット人の弾圧や虐殺に世界中で懸念が広がっていました。日本での聖火リレーのスタート地点には善光寺が予定されていたのですが、善光寺はチベット人弾圧に抗議すべく、これを直前に拒否したのです。聖火リレーの日はチベット支持者ら有志による抗議活動も予定されていたために、中国政府は在日中国人に長野に集結するように指示、平成20年(2008年)4月26日、聖火リレーの日の長野市はそこかしこで乱闘騒ぎとなり大変でした。けが人も多く出たのは悲しいことでしたが、不正義に屈しなかった善光寺の対応は支持したいと思います。その後、平成22年(2010年)にはダライ・ラマ法王が善光寺を訪れ世界平和を祈念する法要が行われました。この時に使われた砂曼荼羅は善光寺資料館に展示されています。
宗教者は政治に口をだすべきではないという意見は当然あります。しかし、どこからが口出しとなるのでしょうか?特定の民族であることを理由に弾圧や虐殺される人達がいる時に、それに口をつぐむことが宗教者として正しいことでしょうか?少なくとも私はそうは思いません。現在の日本の諸宗派は大なり小なり政治に口出ししており、必ずしも同意できる意見ばかりではありませんが、世のため人のために行動を取ることも大乗仏教の重要な役目であると思います。南無善光寺如来。
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