大黒寺(京都府京都市伏見区)
バーチャルお寺巡り第4回目は大黒寺です。
大黒寺は開基は弘法大師空海であるとも伝えられる真言宗の寺院で、空海の作と伝えられる本尊の聖観音像と大黒天像が安置され、元は長福寺と呼ばれていました。現在の本尊の大黒天像は60年に一度、甲子の年に開帳される秘仏ですが、前回の御開帳は丙申の年である平成28年(2016年)の京都非公開文化財特別公開でのものでした。秘仏とはめったにまみえる事が叶わぬから我が身の無常に思いを致す機会が得られるというもので、そうやすやすと例外を作るべきでは無いかと思いますが、正直いうと拝観したかったですw次の甲子の年は西暦2044年、生きていれば参拝したいです。
その後、豊臣秀吉の信奉も受けた長福寺ですが、江戸時代になり近くに薩摩藩邸が置かれると、島津家の守り神でもあった大黒天を祀る長福寺を薩摩藩の祈願所にするように島津義弘が伏見奉行に願い出て、元和元年(1615年)、薩摩藩の祈願所として寺名を大黒寺に改名、御本尊も大黒天となりました。以後、薩摩藩と縁の深いお寺として今に残ります。
さて、宝暦4年(1754年)から翌5年に、宝暦治水事件と呼ばれる悲劇が薩摩藩を襲います。事の発端は洪水に悩む木曽川・長良川・揖斐川の治水工事を徳川幕府が薩摩藩に命じた事に始まります。工事自体は良いのですが、わざわざ遠方の財政も苦しい藩に多大な負担を伴う工事を命じるのは薩摩藩を狙う幕府の陰謀と捉える薩摩藩士も多く徳川と一戦交えるべしとの意見もでましたが、家老の平田靱負はこれらの強硬論を抑え治水工事を請け負います。しかし、薩摩が工事を開始しても幕府は、堤防を破壊したり、重労働の薩摩藩士たちに十分な食事を摂ることを禁じたり、地元住民に対して薩摩へは必要物品を高額で売るように命じるなど、筆舌に尽くしがたい嫌がらせを続けたのです。そんな中、派遣された薩摩藩士947名中、抗議の自刃で絶命したもの51名、157名が病に倒れうち33名が死亡する被害を出しながら、また薩摩には莫大な借金を残して、平田らはこの治水工事を完遂します。平田靱負は国許に工事完了の手紙を送った翌日の宝暦5年5月25日に、責任を取り切腹して果てたのです。その平田靱負の墓が今も大黒寺に祀られています。この宝暦治水事件により財政的に追い詰められた薩摩藩はその後、領民らから過酷な取り立て実施するなど二次的な被害も生みました。他人への嫌がらせは次々に連鎖してさらなる悲劇を招きます。私達も気をつけましょう。なお、平田靱負の墓だけでなく大正時代に立てられた薩摩義士を顕彰する碑も境内にはあります。
宝暦治水事件から100年以上過ぎた幕末の文久2年(1862年)4月23日、尊皇派の薩摩藩士である有馬新七ら9名が、当時はまだ公武合体派であった島津久光に粛清される寺田屋騒動と呼ばれる事件がおきました。彼ら9名の墓もまた、大黒寺に祀られています。また、通常非公開ですが、幕末に西郷隆盛や大久保利通が議論をしたという部屋や薩摩に関する書や藩士らの遺品も多く所蔵されています。
他、薩摩とは関係ないですが天明5年(1785年)、飢饉の最中に民を苦しめる悪政を敷いていた伏見奉行の小堀政方を、伏見の町年寄の文殊九助ら七人が幕府に直訴、訴えは退けられ彼らは投獄されてしまいました。後に、小堀政方は罷免されるのですが、訴えを起こした義民七名は獄中死してしまったのです。そんな彼らの遺髪を祀った墓も大黒寺境内にあります。
通りを挟んで向かいにある金札宮という古社の末社には大きな恵比寿様が祀られています。大黒様と恵比寿様は一組で祀られることも多く、何かしらの関係があるのかも知れません。
特に観光化された寺社では無いので、自粛終了後にお参りされる際は地図の確認を確実に。
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