石山本願寺跡(大阪府大阪市)

 ヴァーチャルなお寺巡りの第2回目は、大阪府大阪市の石山本願寺(跡)です。

 日本の歴史上、その文化や精神面で多大な影響を及ぼしてきたお寺は数々ありますが、歴史の流れに直接物理的に介入(武力介入とも言う)して名を馳せたお寺と言えば、石山本願寺がその筆頭に上がるでしょう。本願寺第11代門主の顕如上人が、11年に渡りあの織田信長と死闘を繰り広げた石山合戦は、拠点となる強固な石山本願寺がなければ成立しえないものでした。今回は、そんな石山本願寺の歴史を振り返ってみましょう。

 親鸞聖人の墓所が元となった本願寺は、様々な理由で所在地が流転していった歴史があります。石山本願寺に移転する前は、現在の京都府山科に本願寺がありました。この山科本願寺は、浄土真宗中興の祖として名高い蓮如上人が文明10年(1478年)、山科に拠点を移動してから6年で完成させ、蓮如上人とその後の代でも徐々に拡張を重ね、その境内に移住した商工業者が寺内町を形成し繁栄を極めていました。しかし、時は戦国乱世にうつり本願寺は大名の細川晴元と対立するようになりました。天文元年(1532年)、山科本願寺は晴元の指示を受けた守護大名の六角氏らの攻撃にあって焼け落ちてしまったのです。

 この山科本願寺焼亡の時の宗主、第10代証如上人は天文2年(1533年)、現在の大阪にあった大坂御坊に本願寺を移転させ石山本願寺(大坂本願寺)としました。証如上人は石山本願寺を増強し寺内町もあわせて繁栄していきます。天文4年(1535年)には細川・六角との和議は成立したものの、石山本願寺は強固な城塞としての機能も強化されていきました。本願寺の勢力は諸大名にも脅威であり、天文12年(1543年)、証如上人にお子が出来ると翌年の天文13年には公家の三条家の娘で細川晴元の養女であった姫と、数え2歳にして早々に婚約が成立します。かつて山科本願寺を焼き払った敵の申し出による露骨な政略結婚(婚約)で証如上人も当初は難色を示しましたが和平を優先させてこれを了承したのです。証如上人はさらに、浄土真宗の信徒が自治を行っていた加賀国(現在の石川県)を本願寺の統制下におき、戦国時代を生き抜く政治的軍事的な指導者としての色を強くしていったのです。

 そんな証如上人でしたが、天文22年(1553年)より病にふせり、翌年の天文23年8月13日に39歳の若さでおなくなりになりました。証如上人の長男である顕如上人は、その前日に急遽、本願寺で得度を受け正式な僧侶となり本願寺の跡を継ぎ第11代宗主となりました。顕如上人より前までは比叡山で得度を受けるのが習わしでしたが、これ以降、本願寺の跡継ぎは独自に得度を受けるようになります。弘治3年(1557年)かねてより婚約してた細川晴元の養女が、六角氏の猶子として正式に顕如と婚姻し、如春という法名がつけられました。当初は露骨な政略結婚だったのですが、顕如上人と如春尼の夫婦仲はたいそう睦まじく、結婚後30年が過ぎてもお互いを想い作られた和歌が今に残っています。また顕如上人も父の証如上人も関白の九条家の猶子になっていたこともあり永禄2年に本願寺は門跡(皇族や公家が住職を務める最高寺格)に列せられました。その影響もあり永禄4年(1561年)の親鸞聖人三百回忌は盛大であったと伝えられています。また、如春尼の年の離れた姉は武田信玄に嫁いでおり、永禄8年(1565年)に武田家との同盟関係が成立しました。浅井、朝倉家とも友好関係を保ち平和を保つ努力が続けられていたのです。こうして、強大な力をつけていた本願寺に対して、永禄11年(1568年)、天下布武を狙う織田信長が、室町将軍家再興の費用として莫大な資金提供を命じてきました。顕如上人はこれを受け入れ支払いに応じましたが、元亀元年(1570年)には新たな信長の要求(石山本願寺の明け渡しと伝えられる)に従えなければ本願寺を破却するとの通達があり、この要求を顕如上人が拒否しました。同年9月12日に織田軍が石山本願寺攻撃し、これを発端に長きに渡る石山合戦が始まりました。

 石山合戦はいわゆる信長包囲網の一つと見られていますが、合戦開始から3年後の元亀4年(1573年)には武田信玄が死去し、浅井、朝倉家も織田信長に滅ぼされます。その翌年の天正2年(1574年)には本願寺とともに信長に抵抗していた現在の三重県長島にあった願証寺の門徒らが徹底的な殺戮を受けて壊滅しました。その後、毛利家の物資支援を受けつつも天正8年(1580年)まで石山本願寺が持ちこたえたのは、顕如上人と門徒兵の信仰心や浄土真宗門徒が多かった鉄砲を得意とする雑賀衆の助力などもありますが、石山本願寺の城としての機能も大きかったものと思われます。しかも、正親町天皇の調停があったとは言え、本願寺が不利な状況で宗門を守り抜き講和が成立したのも、石山本願寺に総攻撃を躊躇するだけの力があった事の証左とも言えます。なお、講和成立後も顕如上人の長男の教如上人は徹底抗戦を主張して石山本願寺にしばらく立てこもり、火を放って退去したと言われています。この時の親子の対立が後に本願寺の東西分裂を招く遠因ともなるのですが、それはまた別のお話で。また、余談ではありますが、石山合戦の籠城の時に兵糧として食されたと言われるお菓子があり、信長と講和した際に顕如上人が詠んだ歌から、後に松風と命名され、今でも西本願寺の門前近くにある亀屋陸奥さんで売られています。松風を食しながら石山合戦に思いを馳せるのもありですね。

 その後、色々あって、石山本願寺の跡地を利用して秀吉が大坂城を築城します。この石山本願寺の流れを組む城が、大坂の陣で再び絶対的な権力者に挑む姿は、歴史好きには感じる所があります。
 
 写真は、大坂城にある石山本願寺推定地の碑、大坂御坊の頃に蓮如上人が袈裟をかけたという松の跡、蓮如上人の顕彰碑です。大坂城観光の際に探してみてください。人物画は顕如上人と如春尼のものです(なかなかの美男美女ですね)。



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