仏教と巨大数

  子供の頃に学校で習った命数法では、日常では使わない大きな数字に恒河沙、阿僧祇、那由多などのカッコイイ名前が多くワクワクしたものです。残念ながら、社会に出てからは一部の専門的な職種や趣味の人を除いて極端に桁の多い数字を使うことはありません。これらの数字は主にインドで生まれ漢訳された仏典によって日本に伝わったのです。恒河沙などはそのままガンジス川の砂の数と言う意味です。逆に少数でも一般に名前のついている最も小さいものは10のマイナス24乗の「涅槃寂静」でそのまま仏教思想を表しています。今日は仏教と巨大数についてお話します。

 さて、華厳経の中にはまるまる一章を巨大数の解説だけに使った物があります。華厳経は元々が、4世紀頃に現在のウイグル地方でインドから伝わった複数の経典を継ぎ接ぎにまとめたもので、いくつかのバリエーションがあります。六十華厳と呼ばれるものでは心王菩薩問阿僧祇品と呼ばれる章に巨大数の解説があります。この品の中では百千(10万)の二乗の百億を「拘梨」と名付け、さらにその二乗の一垓を「不変」と名付けています。2乗された答えをまた2乗にすることを「拘梨」から120回続けた数字が「不可説転々」と呼ばれます。一般に習う最大の命数である無量大数はたったの10の68乗ですのでスケールに違いがありすぎですね。

 華厳経ではこのあとに、浄土と現世などの世界に応じて違う時間の流れを説明しています。この説明の際のスケール感を実感させるため事前に巨大数の説明をしたのかも知れません。実際に時間は相対的なものでしか無いのですが、1500年ほど前に直感で言い当てているのはすごいです。

 華厳経は大乗仏典に属し、空や唯識や如来蔵思想を混ぜ合わせたような章立てになっており、菩薩の修行段階を示した十地品や、善財童子が色んな人々から教えを受けて成長する物語の入法界品が有名です。すべての世界に等しく働く原理として毘盧遮那仏を中心とした教説を作るに当たり、スケールの大きさを示すのにも数字を観るのは意味がある様に思えます。

 言うまでもなく数字は無限です。人間がどんな表記法を考えついても、機械がどんなに発達しても、数を数え尽くすことは不可能です。無限を数えると言うことにおいて人間は必ず数字に敗北します。数は最も手軽に無限を体感できる概念でもあるのです。物を数える時の数字は人の分別や差別に由来しますが、純粋に概念としての数字は存在し同時に存在せず、数もまた空であるのです。禅の修行で延々と1〜10まで呼吸を数え続けるものがあるのも、具体性の無い数字は集中するのに向いているからかも知れません。

コメント

このブログの人気の投稿

浄土真宗本願寺派の不祥事

妙好人、浅原才市の詩

誰がどの政党や候補者を支持しようがそれ自体が非難されてはならない