父母
親鸞聖人の浄土和讃の中の弥陀和讃に次の歌があります。
平等心をうるときを 一子地となづけたり
一子地は仏性なり 安養にいたりてさとるべし
この歌では、全てを平等に観る心を得る境地を一子地と名付けています。一子地とは、この世のすべてを自分の一人子に対するような慈悲の心を持って接する事とされます。これは極楽往生してから悟るものだとしています。
同じく、親鸞聖人の正像末和讃の皇太子聖徳奉讃に次の歌があります。
救世観音大菩薩 聖徳皇と示現して
多々のごとくすてずして 阿摩のごとくにそひたまふ
日本仏教の祖と言うべき聖徳太子は救世観音菩薩の化身として各地で崇敬を集めています。親鸞聖人が法然聖人に出会う事になったもの聖徳太子の夢告によるもので、多くの聖徳太子を称える歌が残されています。この歌では、救世観音菩薩たる聖徳太子が、我々衆生のことを父親の様に見捨てずにいて、母親のようにそばにいてくださると詠んでいます。
このように仏の慈悲を説明する時に親の子に対する情が全世界に及んでいる状態とする説明を行う宗派は浄土真宗に限らず多いです。日蓮宗で特に父母への孝養の心を強調しているのは、仏から自分に対する慈悲の心への報恩を意味してもいます。
しかし、そもそも論として仏僧がなぜに出家するのかと言えば、こうした情を執着と考え断ち切る為でもあります。仏がこの執着を全世界レベルまで拡大したとして、それは仏教的に妥当と言えるのか疑問が生じるかも知れません。
この疑問の答えは部派仏教的には恐らくアウトですが、大乗仏教としては問題ないかと思います。大乗仏教は利他がまず先に来ます。一切の差別なく平等に森羅万象に広がる執着は他と比べることも出来ません。他と差がなければ執着とも言えなくなります。菩薩行を極めれば自利も利他も差別も平等もすべての分別から離れるのです。
ただ、この親子の情の例えは一般にわかりやすいという利点はあるものの、親から愛情を注がれずに育ったり、自分の子もおらずいても子に愛情が持てなかったり、概念としてもそれらを理解出来ない人には、むしろわかりにくいものとなるでしょう。有史以来、子供への虐待は途絶えたことがありません。一定数はこの例えを体感的に理解できない人がいるはずです。しかし、大乗仏教の成立以来、多くの僧が世界の全てに慈悲を持とうとして生きてきたからこそ現代の日本にも仏教は残っているのです。父母が我が子に向けるような彼らの利他と慈悲はきっと一切の衆生に届く事でしょう。
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