沖縄終戦の日

 昭和20年(1945年)6月23日午前4時、沖縄戦の日本軍指揮官牛島満陸軍大将が割腹を遂げ、日本軍の組織的抵抗は終わり沖縄戦は終結しました。約3ヶ月に渡る戦闘で散った20万人にも及ぶ犠牲者に祈りを捧げます。

 沖縄では終戦の日は8月15日ではなく6月23日で、この日に慰霊式典が行われます。今年は新型コロナウイルスの影響で慰霊式典は縮小し、会場も沖縄県平和記念公園内の平和の礎の広場から同公園内の国立沖縄戦没者墓苑に変更される予定でした。しかし、この墓苑の周囲には戦没した軍人らの慰霊碑が立ち並ぶことから、殉国死を追認するとか犠牲を美化するなどとの批判が有識者から出て、例年通りの広場に戻されました。

 沖縄戦は捨て石作戦などとよく言われますが、大本営としては沖縄を決戦の場とみなして準備を行っていました。当初は現地の第32軍もその方針でしたが、沖縄防衛の為に呼び寄せた最精鋭部隊の第9師団が昭和19年末から翌20年始にかけて台湾方面に抽出されてしまい、持久戦に作戦を変更せざるを得なくなりました。また、精鋭部隊の穴を埋めるために、多くの沖縄県民が動員されることとなりました。こうして作戦の変更などからよく準備も出来ていなかった昭和20年3月26日より沖縄に対する米軍の本格的侵攻が始まってしまい、主に航空戦力を基軸とした決戦を企図する大本営と地上での持久戦を狙った現地軍の考え方の違いを調整する間も無く戦闘に突入したのです。第32軍に残された力とその方針では、沖縄の航空基地を維持することは不可能でしたが、大本営からの奪還命令などを受け持久戦に徹することも出来ず戦力を消耗していきます。他方、沖縄での決戦を目指す大本営は残る海軍力のほぼ全てと大量の特攻機を用いてアメリカ軍に大打撃を与えますが、連合艦隊も壊滅します。沖縄防衛の為に多くの若者が体当たりの特攻で散っていきました。日本軍の海上と航空戦力が喪失してからも第32軍は戦い続け、敗戦間近の6月18日にはアメリカ軍の司令官バックナー中将も日本の攻撃を受け戦死しました。一連の日本軍の徹底抗戦の結果、アメリカ軍の侵攻は慎重になり本土が救われたのは事実です。海軍中将の大田実も自決前に送った最後の電報で、多大な犠牲を払った沖縄県民に後世に特別のご高配を願う文章を綴っており、被害の凄まじさが忍ばれます。しかし、それは換言すると沖縄県民の犠牲で日本本土が救われた事になり、日本軍の意図は別にしても沖縄戦を捨て石作戦だったとの批判の原因となっています。

 日本軍は沖縄を捨て石にしたとか、一部軍人が住民に暴行を働いたとして批判を浴びることも多いです。今回の慰霊式典の会場も、軍人の慰霊碑が不愉快だと言う有識者の声で変更となっています。しかし、沖縄戦では多くの若者が沖縄を護るために自分の命を捨てて戦ったのです。戦争自体が悪いという意見もありましょうが、彼らの慰霊碑をまるで汚物のように言うのだけはやめていただきたいものです。

 世界平和を祈って、合掌。

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