祈りさえすれば、平和がくるのですか?
「祈りさえすれば、平和がくるのですか?」これは1987年8月、比叡山宗教サミットで世界中の宗教指導者がともに平和の祈りを捧げた時に、日本のマスコミから発せられた質問です。聞き手もおそらく祈りだけで平和が来るなどとは思っていません。これは質問というよりは、行動なき祈りなど無力だとの糾弾のようにも思えます。
しかし、あえて言いましょう、逆に行動だけで祈りがなければ平和は来ないと。世が平和であるようにと強く願う事が大事なのです。祈りの対象が神でも仏でも自分の良心でも構いません。それは何故かをお話しましょう。
平和は単に戦争が無い状態では無く、社会全体が殺したり奪ったり嘘をついたりせずに済む状態です。
東西冷戦時代、ワルシャワ条約機構軍とNATOはついに戦火を交える事はありませんでした。戦争はありませんでしたが、いわゆる東側諸国は平和だったでしょうか?住民は言論の統制を受け、反抗すれば逮捕されたり暗殺されたりします。共産党は人民から搾取を続け、賄賂や嘘が横行する地獄のような世界でした。
中国共産党に占領されたチベットはどうでしょう?中国の進軍時、チベットとの間には散発的な戦闘はあったものの、まともな軍隊のなかったチベットと世界屈指の軍事大国の中国では戦争と言える程の衝突は起きませんでした。戦争はありませんでしたが共産党による占領後、チベットの人口の2割にあたる120万人が殺戮されたとも言われ、文化の破壊は現在もなお続いています。これが平和でしょうか?
個人個人で殺さず奪わず嘘をつかない生活を送るのはさほど難しくはありません。しかし、社会全体となると途端に残虐行為がおきます。社会的に集団で行われる残虐行為にはかならず何かの大義名分がつきます。多くの人が社会の中で自分は社会に貢献する正しいことをしているのだとの信念の元に、残虐行為に加担するのです。そうした集団の流れの中では、ことさら改めて強く平和を念じないと、自分が間違った事をしているのにも気づかなくなります。社会とは集団の利益のために動く大きな装置です。人間が安全で豊かな生活を送るために必要なものですが、全体の利益を優先して動く時、必ず犠牲者が出るのを忘れてはいけません。
個人個人の平和を祈る心なしに、社会の利益、社会の平和の為だけを考えて行動すれば、社会の平和のための戦争や民族浄化も起きてしまいます。ポル・ポトによる国民の虐殺も原始共産主義を実現し平和な理想郷を作るという大義名分のもとに行われました。そうした大きな理念に心を持っていかれると、目の前にあるはずの残虐行為が見えなくなるのです。戦争だってどの国もそれなりの大義名分をもってはじめるのは歴史をみれば明らかです。
だから、祈りは大切なのです。行動を伴わない祈りは無力ですが、心がこもっていない頭で考えただけの社会的理想は、容易に平和を踏みにじるのです。「祈りさえすれば、平和がくるのですか?」と問うたのはマスコミですが、ほとんどのマスコミは社会の為、みんなの為にと言って、マスコミの意にそわない個人や集団を攻撃する記事ばかり書きます。マスコミの記者一人一人が平和を念じ祈っていればまた違う記事が生まれてくるのかも知れません。
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