梁塵秘抄より3
後白河法皇選の梁塵秘抄から今様の紹介の3回目です。
仏も昔は人なりき
われらも終には仏なり
三身仏性具せる身と
知らざりけるこそあはれなれ
現代語では
仏様もかつては人であった
私達も最終的には仏になれる
仏になれる素質を持っているのに
それを自覚していないのは残念なことだ
となります。
誰でも仏になれるというのは、大乗仏教の如来蔵思想と呼ばれる考え方です。生き物は全て仏になる可能性を秘めていますが、すぐ来世で仏になることが出来るのは人だけであり、また転生の中で人に生まれる可能性はものすごく低いというのが当時の常識でした。この今様は、せっかく人に生まれ仏になれるチャンスを得た私達なのに、多くの人が煩悩にまみれて無駄に人生を過ごしていることのもどかしさを歌っているのです。
この今様は替え歌の方が有名で、平家物語で白拍子(男装の芸妓)の祇王がうたっています。
平清盛にみそめられた祇王でしたが、祇王が情けをかけた後進の仏御前に心移りした清盛から捨てられてしまいます。しかし、仏御前は祇王に義理立てをして清盛になびきませんでした。女心がまるで分かっていない清盛は、こともあろうか、捨てた祇王に仏御前の機嫌をとるための歌や舞を奉じるように命じるのでした。その場で祇王はこう歌いました。
仏も昔は凡夫なり
われらも終には仏なり
いずれも仏性具せる身を
隔つるのみこそ悲しけれ
先述の今様に仏御前と自分の悲しさを取り込んで即興の詩として歌ったのでした。
その後、祇王とその母と妹は出家し仏道に入り、程なくして仏御前も後をおって出家し四人で過ごしたということです。後白河法皇の長講堂の過去帳にはこの四人の名があると言われており、女性たちの悲しい運命に法皇も心をよせていたのかも知れません。
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