日本仏教最高(再興)論

 昨日の続きというわけではありませんが、今後の日本仏教の行く末を案じて物申してみます。

 日本仏教衰退の時代にある現在、日本の仏教は釈迦の教えとは違う邪法だとの批判を良く見かけます。だがあえて言わせてもらいましょう、少なくとも日本人に対しては日本仏教は最高であると。

 仏教が他の世界宗教と大きく違うのは、その多様性にあります。キリスト教やイスラム教にも諸派はありますが、基本的には同じ宗教です。一方の仏教は、上座部仏教と浄土教と密教が同じ仏教だとは、その教義の面からはにわかには信じがたいものです。このような多様性が生じるに至った歴史についての詳しくは、また別の回にお話しするとして、仏教は異端勝利の歴史であるとも言われる程に変遷を重ねてきた事実があります。様々な多様性をもつ教えが、現地の文化や時代の流れに応じて変化し定着してきたのです。

 実は似たような現象はイスラム教にもありました。かつてアジア方面に広がったイスラム教は、ムハンマドの正統な流れと比較して、地域によりかなり多様で異質なものもありました。しかし、交通や通信技術の近代化により、一般の人も容易に正統な教えに触れることが出来るようになり原点回帰の運動が起きています。イスラム教には参照すべき確実な原典があり、その内容は神の命令であり疑念の余地が無く、ローカルな間違いが生じてもオリジナルなものに復帰しうるのです。

 では仏教ではどうでしょうか?釈迦の教えは絶対神の命令では無く、人間の釈迦が発見した苦を滅するための真理であり、釈迦以外の人も発見しうるものです。ものすごくはしょって言うと、正しいことは釈迦もいっていたに違いないという発想から、後世の人が考えた正しいことが釈迦の言説として次々に継ぎ足されていった結果多様性が生まれたのです。それに疑問をもつ人がいても、釈迦の言説はその在世中に体系化してまとめられてはおらず、文字として残されたのも釈迦の死後200年ほど経ってからです。残っている文章の研究や体系化は多様性の再生産に寄与するのみでした。仏教にはイスラム教と違って参照すべき確実な原典が存在しないのです。歴史学的に推測される原点に復帰しようとする動きもありますが、そこには論者の恣意性が混じることは避けがたく、彼らの言う教義は結局のところ僕が考えた最強仏教という域を出るものではなく分裂の歴史を繰り返すのだと思われます。

 ではどうすれば良いのでしょうか?仏教はその特性として変容を重ねて時代や地域文化に溶け込んでいったのですから、地域ごとの教えを大切にすればよいのだと提言します。

 日本仏教は祖先や家族を大事にする傾向が強いですが、歴史学的に見ればこれは明らかに仏教のオリジナルでは言われていないことで、同じく血縁を重視する漢人文化の流入とともに日本文化に融合して出来たものであると思われます。仏教行事として春と秋のお彼岸や夏のお盆で祖霊を祀るのは日本独自の文化です。こうした行事で親族一同があつまって楽しく過ごした思い出をもつ人も多いはずです。そんな一般人に、これは非仏教的な邪法の行事だから廃止しろと言ってくる正統仏教徒を名乗る人がいたとして、従いますか?そんな抗議は無視して結構。ご先祖様を大事にして何が悪い?これが日本の仏道だと言ってやればよいのです。

 また日本仏教は葬式仏教よと揶揄されることも多いですが、葬儀が目立つのも祖先を大事にする文化のあらわれとも言えます。値段がどうのと言う意見もありますが、そもそもあれはお布施であり代金では無いのですよ。お金が少ししか出せない人に僧侶がいい加減な対応をしたならその時は文句を言えば良いのです。悪徳な葬儀社もあるでしょうけど、個別に抗議なり裁判なりすれば良いのです。一般論化するのは違うと思います。

 日本の仏教は日本の風土にあわせて融合しているのです。自信をもって信じれば良い。究極的には仏教だって宗教なのです。信心は哲学的に論破出来るものではないです。情けないのは日本の仏僧の側にも、こうした自称原始仏教の原理主義者に同調する人も散見される事です。これは今に始まったことではなく、明治の廃仏毀釈や、それに前後した欧州からのパーリ語経典を正統で他を邪とする研究の流入により、僧侶たちの間にも自分たちの信仰に疑念をもつ人が少なからずいたことも今日の日本仏教衰退の遠因となっているのだと思います。

 原点と言うならば、日本の仏教の祖である聖徳太子にならい和の心を大切にすることに思いを致すのが良いでしょう。あとは、各人の属する伝統宗派の教えを修めていけば良いのです。近代化に伴い、人とのつながりが希薄になっており、先祖はおろか家族の絆も薄れてきている昨今、日本仏教の再興は日本文化の再興にもつながるはずです。合掌。

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